現代人の抱える深い絶望を、
鋭く抉り出した黒沢清監督による『トウキョウソナタ』。
「非都市」への逃避と非日常的体験というイニシエーションを経て、
現代社会に蔓延する希薄な人間関係に
「普通」の家族がどう向き合い、
いかにして絆を再獲得していくかを描く。
アイデンティティの獲得
互いを名前で呼び合う事をせず、子供を通じてしかコミュニケーションをとらない夫婦。
本音を言わず、体面を気にし、無言の同調圧力に屈する現代日本人とその家族が、
リアリティを持って生々しく描かれている。
会社をリストラされた父親
家庭にすら居場所の無い母親
社会の矛盾に気づき悩む兄弟
それぞれの抱える苦悩は様々な階層に跨るものの、彼らの行動に共通して見られるのは、
自らのアイデンティティを「獲得する」という強い動機に支えられている点である。
そして、黒沢監督は家族それぞれにイニシエーション(通過儀礼)を課すことで、
現代日本の家族が抱える問題にどう向き合う(べき)かを提示した。
現代におけるイニシエーションとは
このイニシエーションにおいて、誰と何処へ行くか(といった具体性)はここでは大きな問題では無いだろう。
彼ら佐々木家は、窓のすぐ外に電車が見えるような「都市」に住処を持つ「普通」の家族として描かれる。
そして、物語の中で彼らはそれぞれの成り行きで、住み慣れた「都市」からの移動を余儀無くされる。
辿り着く先は、遠く離れたショッピングセンターであり、(唯一描かれる自然としての)海岸線であり、
見知らぬ土地の留置所である。与えられた場所は様々だが、
心的な距離による日常との対比を鮮やかに描き出して行く。
イニシエーションの途中で、彼らには明確な死を想起させる描写があり、
生まれ変わりさえ示唆しているのでないかと思えるほどだ。
興味深いのは「自らの意思」とは無関係の状況で「非都市」へ連れ出された彼らは、
一連の儀式を経て「自らの意思」で「都市」にある家に帰ってくるのである。
「家に帰る」という当たり前の行為であるにも関わらず、傷を負い、足を引きずりながら家に向かう父親の姿は感動すら覚えるのだ。
彼らがそれぞれのイニシエーションを経て互いに向き合う時、再度獲得される深い家族の絆は、絶望の中で唯一見出される希望の光であった。弟、健二が自らの音楽的才能にアイデンティティを求め、両親二人が見守る中ピアノを弾くラストシーンは、現代社会を色濃く覆う閉塞感に対するひとつの強い答えではないだろうか。
日常を打ち破るもの
全編を通底する、この日常性を打ち破る外的要因への切望は、多くの現代人が共感するところだろう。
数え切れない程の情報が溢れる中、顔の見えない他人と自分を比べながら、
もっと自分に「ふさわしい」居場所があるはずだ、と。
この不可抗力的な外的要因の到来を、閉塞感を打ち破るために望んでいる「普通」の日本人は、恐ろしい事に、東日本大震災が起きたあとでさえ、(自分の状況を都合良く激変させてくれる、得体のしれない「何か」が)起こるべきだと信じているように見えるのだ。何故なら彼らの人生は、望んだものとは程遠く、本当の自分の姿ではないと信じたいからである。
それほどまでに深い闇の中に沈められた現代人の「死に至る病」は、
合理性という名の元ではもはや解決出来ないのではないか。
黒沢監督によるイニシエーションという回答は、
絶望に縛られた現代人への唯一とも言える処方箋なのかもしれない。